03/09/09付毎日新聞記事より

戦時下の女生徒の日常生き生きと−−画家・鈴木ひでさん、中央区で個展


 ◇平和の素晴らしさ知って−−群馬出身の画家・鈴木ひでさん

 ◇戦時下の女生徒の日常生き生きと−−思い出も文章で添え

 群馬県中之条町出身の画家、鈴木ひでさん(77)=千葉県市川市真間=が、戦前の子供時代から戦中の女学生時代の思い出を描いた作品を集めた個展「鈴木ひで・らくがき展」が、中央区日本橋兜町の「すぎもと画廊」で開かれている。やわらかなタッチで戦時下の女生徒たちの日常を生き生きと描き、当時の思い出も文章で添えられている。鈴木さんは「一番おしゃれをしたいころにモンペ姿にシラミ頭でしょ。平和の素晴らしさ、ありがたさを知ってほしい」と話している。

 鈴木さんの実家は乾物屋を営み、男3人、女6人の9人兄弟の8番目として生まれた。群馬県内の吾妻高等女学校を卒業後、旧中島飛行機小泉製作所に勤務。19歳で終戦を迎えた。長兄が病死し、二番目の兄が戦死、姉たちは結婚していたため、ひでさんが家を継ぐように父親に言われたが、絵描きになる夢を捨てきれず、53年、単身で上京した。「トラックに乗せてもらって夜逃げのように家を飛び出した」

 その後、勤めた船舶設計会社で働いていた治五郎さん(88)と結婚した。83年、米国食品会社のイラストコンテストに応募して採用され、米国に招待された。だが英語が話せず悔しい思いをした。帰国後、一から英語を学んで、60歳で米国ロサンゼルスに渡り、約2年間、絵を教えたりしながら英語を学んだ。

 その後、水彩画家の加藤寿子さんに出会い、「戦争時代の体験を、描き残してほしい」と言われ筆をとった。96年、作品を集めた絵本「すめらみくにの乙女たち」を自費出版した。

 女学校時代は男子生徒と話すのは校則違反、もちろん顔を見ることなどできなかった。「そんなことをしたら不良と呼ばれた」とひでさん。女学校3年生のとき太平洋戦争が始まり、制服はモンペに変わった。「身体を鍛え男児を産み国に仕えるのが女性の役目」とされ、冬でも上着を着ることは許されなかった。

 音楽の授業では、同盟国のイタリアの音楽は演奏できたが、音符の「ドレミ……」は「イロハ……」に変わった。その音楽や裁縫時間も次第に勤労奉仕に変わった。

 勤労奉仕では、学校から片道2キロの営林署のスギの苗圃(びょうほ)の草むしりに行った。「休憩時間に出る黒砂糖入りの麦茶がおいしくて」と振り返る。

 卒業後、中島飛行機の工場で働き始めた。空襲がひどくなると工場も県内各地を転々とした。終戦前夜も空襲され、空腹と疲労で終戦直後は、どうしていたのかまったく覚えていないという。

 個展では、自らの戦争体験などをふんだんに盛り込んだ絵本「すめらみくにの乙女たち」の原画と戦前の子供時代を描いた「富山の薬売り」「麦ふみ」などから約50点を展示。13日まで。問い合わせは同画廊電話3666・0745。【鈴木玲子】